馬場一郎(一路居士)は書画を得意としましたが,特に33787枚もの観音様の画を遺しました。1965年に逝去すると,馬場千代香はその想いを形にするべく,1967~1983年にかけて全国33か所に,作品である観音様の石碑を建立しました。このほか番外が5か所あります。詳しくはPDF資料の「一路観音碑道しるべ -三十三基と番外」をご覧ください。経緯は下記橋爪良恒先生の文章を参照ください。
写真は「観音碑の写真」に紹介してあります。一部,アプローチが難しい場所,現状不明な場所がありますのでご注意ください。
No. | 建立時期 | 地名 | 場所 | 住所 | 「一路居士のこと」との相違点 |
番外1 | 1940年夏 | 栃木 | 磨崖仏 | 栃木県栃木市鍋山町440 | 1992年時点やや風化していた |
番外2 | 1951年秋 | 中津川 | 宗泉寺 間先生墓所 | 岐阜県中津川市中津川3371 | |
番外3 | 1955年3月 | 浦和 | 玉蔵院 | 埼玉県浦和市仲町2-13-22 | |
1 | 1967年8月12日 | 中野 | 百観音明治寺 | 東京都中野区沼袋2-28 | |
2 | 1968年9月 | 高崎 | 白衣大観音 | 群馬県高崎市石原町2710-1 | 住居表示修正 |
3 | 1969年9月 | 世田谷 | 一路居士自宅 | 東京都世田谷区松原1-32-19 | 住居表示修正 |
4 | 1970年4月 | 小田原 | 飯泉山勝福寺 | 神奈川県小田原市飯泉1143 | |
5 | 1970年11月26日 | 淡路島 | 先山千光寺 | 兵庫県洲本市上内膳2132 | 住居表示修正 |
6 | 1971年3月21日 | 京都 | 天龍寺三秀院 | 京都市右京区嵯峨天龍寺芒の馬場町64 | |
7 | 1971年6月21日 | 広島 | 江田島秋月 | 広島県安芸郡江田島町秋月 | |
8 | 1971年10月(1985年春再建立) | 徳島 | 剣山藤之池本坊 | 徳島県美馬群木屋平村上カケ-2 | 住居表示修正 |
9 | 1972年9月23日 | 秩父 | 音楽寺 | 埼玉県秩父市寺尾3773 | |
10 | 1973年4月18日 | 秩父 | 常泉寺 | 埼玉県秩父市山田1392 | 住居表示修正 |
11 | 1974年4月 | 京都 | 一燈園 | 京都市山科区四宮柳川町10-7 | 住居表示修正 |
12 | 1974年8月16日 | 埼玉 | 霊山院 | 埼玉県比企郡ときがわ町西平445 | 住居表示修正 |
13 | 1974年10月13日 | 埼玉 | 皎円膳禅寺 | 埼玉県比企郡ときがわ町瀬戸元上60 | 住居表示修正 |
14 | 1975年3月27日 | 伊予菊間 | 遍照院 | 愛媛県越智郡菊間町浜89 | 住居表示修正 |
15 | 1975年4月27日 | 木曽福島 | 興禅寺 | 長野県木曽郡木曽福島町5659 | 住居表示修正 |
16 | 1975年6月22日 | 高野山 | 奥の院 | 和歌山県伊都郡高野町550 | 住居表示修正 |
17 | 1976年4月 | 京都 | 妙心寺智勝院 | 京都市右京区花園妙心寺町48 | 住居表示修正 |
18 | 1976年9月19日 | 浅間 | 普賢寺 | 長野県北佐久郡御代田町大字塩野483 | 住居表示修正 |
19 | 1976年10月 | 岡山 | 高賢寺 | 岡山県倉敷市船穂町船穂3406 | 住居表示修正 |
20 | 1977年5月15日 | 岡山 | 光瓔珞製作所 | 岡山県備前市穂浪2080-1 | 住居表示修正,「珱珞」は「瓔珞」が正 |
21 | 1977年11月27日 | 新潟 | 国上寺 | 新潟県燕市国上1407 | 住居表示修正 |
22 | 1978年4月2日 | 福岡 | 切幡寺 | 福岡県粕屋郡篠栗町2683-50 | 住居表示修正 |
23 | 1978年6月18日 | 栃木 | 妙雲寺 | 栃木県那須塩原郡塩原665 | 住居表示修正 |
24 | 1979年6月3日 | 埼玉 | 喜多院 | 埼玉県川越市小仙波町1-20-1 | 住居表示修正 |
25 | 1979年7月18日 | 富山 | 上日寺 | 富山県氷見市朝日本町16-8 | 住居表示修正 |
26 | 1979年10月14日 | 神奈川 | 法雲寺 | 神奈川県川崎市麻生区高石2-6-1 | |
27 | 1980年6月2日 | 栃木 | 雲照寺 | 栃木県那須塩原智市三区町659 | 住居表示修正 |
28 | 1980年8月24日 | 岐阜 | 圓鏡寺 | 岐阜県本巣郡北方町北方1345-1 | 住居表示修正 |
番外4 | 1980年 | 大阪 | 一嶽寺 | 大阪府豊能郡豊能町木代249-4 | 地図中の余能は余野が正,1992年以前に廃寺となり石碑のみ残っていた,現状不明 |
29 | 1981年3月8日 | 宮崎 | 慈眼禅寺 | 宮崎県延岡市北方町曽木子1752 | 住居表示修正 |
30 | 1981年11月1日 | 埼玉 | 竹寺 | 埼玉県飯能市南704 | 住居表示修正 |
31 | 1982年3月22日 | 鎌倉 | 浄智寺 | 神奈川県鎌倉市山ノ内1402 | 住居表示訂正 |
32 | 1982年11月3日 | 西多摩郡 | 徳雲院 | 東京都あきるの市乙津511 | 住居表示修正 |
33 | 1983年5月8日 | 高崎 | 恵徳寺 | 群馬県高崎市赤坂町77 | |
番外5 | 1989年9月 | 岩手 | 円通山観音寺 | 江刺市愛宕字観音堂沖43 | 発行後に建立,愛宕字橋本227-4のレストラン「茂ちゃん」から2002年6月11日遷座 |
一路観音碑について
「一路観音碑道しるべ -三十三基と番外」より(現代かなづかいに修正)
橋爪良恒 高崎白衣大観音慈眼院 高野山東京別院主監
馬場一路居士の描かれた白衣観音を刻んだ「一路観音碑」の第33番目が,居士の菩提寺である高崎市恵徳寺の境内に建ち,来る5月8日に開眼が行われることになった。
さる1967年8月に東京中野の百観音明治寺に第1番が建てられている。もっとも番号がつけられはじめたのは途中からである。三十三観音にちなんでのことで,千代香さん(居士未亡人)の発願であった。そういった意味からすれば,今回で満願ということになる。一路居士の願われた,広大無辺な観音のこころが,その没後,こうした形あるものとして残され,世の人たちに語りかけることになったのは,まことにめでたいことである。一路居士の素願を受け継がれた千代香さんの深いこころを多としたい。
私のところ,高崎白衣観音の境内に第2番目の観音碑が建てられ,さらにその後,居士の生涯の偉業をしのぶ一路堂の建立等のご縁から,私もいくつかの観音碑の建立について,千代香さんから御相談を受け,そのお手伝いをさせていただいた。50余年の私の今までの人生の中で,忘れることのできない思い出であり,深い悦びでもある。
私がお手伝いしたのは,33の内いくつかであるが,それぞれに皆深い思い出がある。まだお詣りしたことはないが,広島江田島の秋月というところにおわす,野仏の一路観音碑(第7番)などは,夢によく見る。(見たこともないのに不思議なことである)。秩父霊場の音楽寺とのご縁(第9番)が最初であった。良寛和尚の故地,越後の国上寺に建てられた時の喜びも忘れられない(第21番)。この時の建碑には,新潟の加藤国一郎さんとのめぐりあいという因縁もあった。
高野山奥の院にも,清流玉川のほとりに一基建てられている(第16番)。私が高野山在住の頃のことである。岡山の高徳寺(第19番)は高橋智運師,九州篠栗の切幡寺(第22番)は藪光竜師,いずれも,高野山で出会った若き法友の住房であり,北陸氷見の上日寺(第25番)の柳原竜完師は父子2代にわたって因縁の深い方であり,天然記念物の大銀杏の下に鎮座している。この時の開眼にはミロク会の会員も参加し,ついでに,能登一周旅行をした思い出もある。東海の地に是非1基という願いが叶って,美濃北方の円鏡寺に第28番の碑が建てられたのは,1980年の夏のことである。この寺の大総代,国井高市翁とのご縁である。一路観音碑の建立をお世話するたびに,多くの知友との交わりをさらに深めることになったのは,何ともありがたいことである。
その後も順調に建碑はすすめられて,1981年には,九州延岡の慈眼寺(第29番) ,埼玉飯能の竹寺(第30番) ,また昨年は,鎌倉の浄智寺(第31番) ,奥多摩五日市の徳雲院(第32番)に建てられた。そして,いよいよ,今度の恵徳寺で33三観音満願ということになる。
千代香さんは決して無理をなさらずに,縁のおもむくままに,しかも辛抱づよく,この浄業を成しとげられた。三十三観音全体の配置を考えると,その地について,若干の心残りがないでもないが,それは所詮,執というもの,あまり気にすることもあるまい。
それに,この33番で一応の区切りはついたが,これに限定されることもないだろう。志ある人の手によって,さらにいくつもの一路観音碑が生まれてくることがのぞましい。建つとか建てられるとかいったことではなく,地湧の菩薩たちのように,地から湧きおこってくるという方が正しいと思う。
元来,一路居士が生涯に残された,33787本という施画の数も,その量の多さもさることながら,実際は,たったの1本なのである。その「こが尊いのである。恐らく,この1本,1枚をと念じながら,気がついてみたら,途方もない数になっていたということだろう。観音大悲の風光はかくのごときものである。
千代香さんはこの一路居士の志を受け継がれたわけだが,表に立つことを,晴れがましい場に坐ることを極端に嫌われる。それは,居士が1本1本を描きつづけられたこころをよく知っておられるからであろう。かつて私が畏敬してやまなかった,播州清水寺の先師清水谷老師は,観音さまのことを,「静かでしかもにぎやかな観音さま」とおっしゃった。一人一切人というか,たった1つの中に無量の仏が生き,はたらいているということが,一路居士のこころでもあり,千代香さんのこころでもあり,これを拝む人のこころでもあろうか。ともかく,一路観音碑33ケ所の完成はこの上なくめでたく,うれしいことである。いつの日か,一路観音33ケ所巡礼の杖を引き,月尾管子さんのいうように,お弁当でもひろげながら,心ゆくまで観音さまと語りあいたいものである。
以上の文章は,さる1983年5月一路居士の菩提寺高崎市恵徳寺の境内の一隅に,第33番の一路観音碑が建立され,千代香さんの浄業が満願された時に,。ハンフレットに「一路観音碑について」と題して,私の書いたものである。開眼法要の後で,寺の隣りの高崎神社新生会館で行われた祝賀会の席上での,生涯の重荷をおろされて万感胸に迫る調子で挨拶をされた,
千代香さんの姿が今でも目に見えるような気がする。それから一年も経たずに,翌年1984年4月3日,千代香さんは新しい年の花も見ずに,忽然として逝かれた。散り急ぎの感なきにしもあらずではあったが,千代香さんにしてみれば,すべてを燃やし尽くしての安らかな往生であったと信じたい。
一路居士にしろ,千代香夫人にしろ,見事なまでにその生を全うし,観音大悲の道を生き抜かれた。そのこころは,居士観音施画のように,無量の此の世の星々となって,多くの人たちに幸せのありかを告げつづけることであろう。
居士のお孫さんであり,千代香さんの晩年つねにその身辺に侍して,つぶさにその観音の行を聴かれた藤田いくみさんが,千代香さんの1周忌を期して「一路観音碑道しるべ」という本をまとめられた。千代香さんが亡くなられてから約半歳,土曜日曜を利用されて,いくみさんは一路観音の石碑を巡りつづけられた。「お弁当でもひろげながら,心ゆくまで観音さまと語りあいたい」という私の夢を,もっと切実な気持ちで,祈りと追慕の思いをこめながら,実行されたのが,藤田いくみさんである。
一路居士の広大な念いが,ここにまた一つ新しい天地を拓いた思いである。
1985年1月誌