

小松庵風だより(しょうしょうあんかぜだより) 6 2025.12.14追加
武甲庵に清水武司氏を訪ねる
祖母馬場千代香と暮らした自宅の玄関にかけられている二枚の扁額。
一枚は一路居士の観音画像、もう一枚は「南無観世音菩薩」の七文字と裏に「八十九柏翁刻」と彫られている。
観音画像は刻線に胡粉を、「南無観世音菩薩」は緑青、裏面の「八十九柏翁」には朱の顔料が埋められている。
版木は古色を帯びているが刻線の色は鮮やかで美しい。
祖父馬場一路居士の年譜によると、昭和36年(1961)74歳4月清水柏翁の好意により一路居士観音扁額100枚が刻され平癒祈願の為に知人に贈る…とある。
居士永眠4年前のことである。
100枚の扁額を刻した清水柏翁氏は秩父の写真家清水武甲氏の父上であることは祖母から聞いていた。
秩父の友人を訪ねたのを機に、清水武甲氏の写真館が子息武司氏によって改装された「カフェ&ギャラリー武甲庵」を今日訪ねた。
武甲庵の隣の自宅からギャラリーに出てこられた武司氏は、それは優しい雰囲気の方だった。
私がスマホに出した二枚の扁額の画面をじっと見て、「これは祖父清水柏翁が時々彫っていたものですよ。今も家の仏壇の上に掛けてあります」と言われた。
「これは私の家に掛けてある物の写真です」と答えると、「祖父が彫った物を大事にしてくれてありがとう」と静かに丁寧に言われた。
この観音画像は私の祖父馬場一路居士が描いた画像を彫り扁額にした物であることを話すと、「時々この観音様を彫って人様に差し上げていました。祖父はなかなか気難しい人で自分がこれはと思った人に渡していたようです」とおっしゃるではないか…。
この時に私は思った。
祖母馬場千代香は33基の一路観音碑を建て、観音施画を続けた夫の遺志を継いだけれど、観音施画の心を継承し実践した人が他にもいたのだ…と。
これは新たな発見と大きな驚きであった。
武司氏の説明からは、柏翁氏が自らの意思で観音画像を彫り心の通い合う方に手渡していたという。
柏翁氏がどういう經緯で一路居士の観音画像と出会い100牧の扁額に仕立てたのかは祖母からは聞いていない。
しかしその100枚の他に自らの意思で観音画像を彫り続け、心の通い合う人に手渡していたということになる。
一路居士の観音様への念いは同じく清水柏翁氏の念いと縒り合わさり、居士とは面識のない人の所に行き心の拠り所になっていったんだ…
清水武司氏がお祖父様の柏翁氏を心の底から懐かしみ敬愛している心情が伝わり、私の心も温かく潤った。そしてパズルのピースが一つ埋まったような気がした。

小松庵風だより(しょうしょうあんかぜだより) 5 2025.12.14追加
「千手かんのん」
豆折本 月尾菅子
昭和48年(1973)3月16日私は丸ビル和風堂でお約束いただいた書家の中島司有先生をお待ちしていた。
その間の先生がお見えになる30分と、お見えになってからお会いしている間の1時間に私は思わね発見をした。
それは千代香さんが観音様にそっくりに見えたのである。少し斜めの横顔の二重瞼のあたりが高崎観音に似ていて、内心驚きであった。
そう見えてからの千代香さんの働きは千手かんのんのそれであった。
いろんな人がきていろんな問題をもちかける。いろんな電話がきてむつかしい相談ごとがある。
金襴のスリッパが欲しいという人、雛人形の木箱が入用という人、特製の筆に銘を入れてくださいという人、必ずしも商売の儲けに繋がることばかりではないのに、よく面倒をみて一しょうけんめいになさるものだ。
一路居士の理想は千代香さんを観音様に仕立てることであったのであろう。千代香さんは御自身知らず識らずのうちに大した道を歩んで居られます。
付記
私は余命いくばくもなく千代香さんは私よりずっとお若いから長く生きられるのが順序である。これは私の死後のために書いたのであるからお孫さまのいくみさまにお預けしておきます。
48.3.24
月尾菅子

水原徳言(みはらとくげん)氏デザインの陰影「路」の座布団と,一路堂パンフレット
小松庵風だより(しょうしょうあんかぜだより) 4 2025.6.8追加
花吹雪の一路堂
一路堂を祖母馬場千代香が観音山慈眼院に建立・寄贈したのは、1974年(昭和49年)のことである。千代香は建て替えを予定されていた慈眼院本堂の片隅に、夫馬場一路居士の遺作展示の場を設けていただけないかと、副住職橋爪良恒師にお願いした。その構想が大きく膨らみ一路堂建立へと発展したのである。
徐々に構想が定まる過程の中で千代香は幾度も慈眼院に通い、「一路居士を故郷の高崎へ」という千代香の願いを建物に現すべく、設計者の水原徳言氏は店舗の和風堂と世田谷の自宅を訪れて想を練られた。
千代香は全身全霊で事に当たる性格だから、予想と現実が噛み合わないとさらなる情熱を降り注ぐ。生業である和風堂の店主を勤め、またライフワークの一路観音碑建立を続けながらのことであった。
落慶が成った後も収蔵するための作品を選び表具を施し説明を付けて、春秋の彼岸に一路堂へ運び展示を続けた。
私は二児に恵まれる中で千代香を手伝い夫も協力した。手伝うというよりは千代香の情熱に惹き込まれ、濃密濃厚な18年をともに過ごしたのであった。
1984年(昭和59年)千代香亡き後も何年か展示替えを続けた。しかしこの作業から引退しようと決めたのは、遺された者のエネルギーだけでは続かないと悟ったからであった。
慈眼院若住職夫人の手で一路堂カフェがオープンされた数年後、私が次男夫婦に促されるような気持ちで一路堂を訪ねたのはそれから30年を経てからである。
一路堂は在った。潜り戸にかかる橋爪良恒師筆「一路堂」は慎ましく、鹿児島寿蔵先生の一路観音画像を詠んだ歌碑はそのままに建ち、朝比奈宗源老師筆「一路堂」の扁額を掲げた入り口の佇まい、玄関の壁に掲げられた橋爪良恒師筆の「清規」、黒漆のカウンター、茶室の小松庵、講堂の広間、五〜六段降りた展示場、ランチに供された水原徳言氏デザインの風格ある湯呑茶碗と陰影「路」の意匠の座布団、何もかもが懐かしかった。
さらに4年後の2025年春一路堂で友人たちと会食する機会を得た。眼下に原生林が広がる崖の段を降りた敷地に建つ一路堂は、南面に桜の大木を擁している。散りはじめていた花は谷からの風が吹き上がるたびに花びらが幾度も舞い踊り降りしきる。別の世界に居てこの景色を見ているような気がした。
これで良かったのだ・・・そんな気持ちが湧いてきた。花吹雪は私の心を洗って励ましてくれているのだ・・・
祖父や祖母の心にもっと近付いていきたい・・とも思った。
そして小冊子「一路観音碑道しるべー33基と番外」の中に寄稿していただいた「一路観音碑について」の文末に、私に心配りをしてくださった橋爪良恒師の言葉が心に甦り、素直に受け止めていこうと決めた。
桜に心を寄せておられた良恒師を想い、今日の花吹雪に出会った不思議を想った。
谷風や桜吹雪に邂逅す いくみ

小松庵風だより(しょうしょうあんかぜだより) 3 2025.4.25追加
ケンちゃん
「ウワーン、オンオンオンオンオンオンオンオン・・・・」
拳を顔にあて、私に寄りかかって次男は号泣した。インコのケンちゃんが死んだ日の朝だった。
まだ雛のケンちゃんは、次男が作ってやったおもちゃのレゴの家でチョコチョコと遊んだ。疲れるとタオルにくるまり、頭を羽根の間に埋めて瞳を閉じた。
私たちは、その愛くるしさにただただ心を奪われていた。小鳥の飼育に初体験の故に、この鳥の明日の命にまで思いが至らなかった。
初代のケンちゃんとは、たった5日の触れ合いだった。
夜帰宅して事の次第を聞いた夫は次男を評して、「あいつも良いとこあるな!」とひとこと言った。
小松庵風だより(しょうしょうあんかぜだより) 2

どっち
インコのケンちゃんが「ピイピイピイ」と呼びかける。夫が「ピーッピイピイ」と口笛で応える。
「ピッピイピイピイ、ピーッピイ」喉を膨らませてケンちゃんが鳴く。
ケンちゃんはなかなか勉強熱心だ。
まんまるな目で首をかしげ、夫の口元に耳を寄せて、「ドー、レー、ミー、ファー、ソー、ラー、シー、ドー」の口笛を聴きとろうとしている。
見ていたら、どっちが鳥でどっちが人間か分からなくなった。
恋多きいや多すぎて梅の花
ほうこう
小松庵(しょうしょうあん)とは門にかかる小さな松を愛おしんで、祖父馬場一路居士が自宅につけた愛称です。藤田いくみ
小松庵風だより(しょうしょうあんかぜだより)1

無事
「ケンちゃん、お留守番頼んだわよ。あんたがいるから私は安心なのよ。」
インコのケンちゃんに言い聞かせ、玄関の観音様にもようく手を合わせ、私は出かけた。
夕方帰宅して、ドアの鍵穴に差し込んだキーに手応えが無い。
「シマッタ、鳥と喋っていて鍵を掛け忘れたんだ!」
シンとした家の中に、ケンちゃんの声だけがピイピイと響きわたった。
「何事も無かった・・・」
胸を撫でおろし、私はケンちゃんと観音様に無事を感謝した。
小松庵松笑わせて風の春…
ほうこう
小松庵(しょうしょうあん)とは、門にかかる小さな松を愛おしんで、祖父馬場一路が自宅につけた愛称です。藤田いくみ